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消えた新薬…助かる命と間に合わない命〔1〕

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多剤耐性菌のイメージ

既存の抗菌薬が効かない薬剤耐性菌は、2016年5月のG7伊勢志摩サミットにおいて、対策の強化が協議されるなど、今や世界的に極めて重大な社会問題となっている。


多剤耐性菌は、現在使われているあらゆる抗菌薬が効かない、強力に変異した細菌の事で、特に緑膿菌やアシネトバクター、グラム陰性菌を原因菌とする感染症は、重病化・難治化するリスクが高くなっている。

緑膿菌とグラム陰性桿菌

新たな感染症に対して、殆ど抵抗性を持たない乳幼児や小児では、特にその影響は深刻で、助かったとしても、重い後遺症が残る場合がある。






人と病気との戦いは、自分自身の体内で起こる遺伝子の突然変異に拠る病気と、外部から侵入してくる細菌・ウイルスなどによる感染症によって発症する病気に別けられる。

そして感染菌との戦いは、そのまま抗菌薬(抗生物質)の開発の歴史でもある――。






終戦から18年余り―――。

傷痍軍人
小学生の頃、正月、神社に初詣に行くと、傷痍軍人が募金箱を首から下げ、神社の入口や駅前に立ってる姿を見て、子供心に恐いおじさん‥‥、と思ったのを覚えている。


その頃、ようやく抗生物質が、地方の小さな山あいの医院でも扱われるようになりました。

その普及に寄与したのは、保険収載、すなわち保険適応となった事です。
全国津々浦々の人々が、等しく抗生物質(抗菌薬)を使用するためには、是非とも保険適応が必要だったのです。




日本では1944年(昭和19年)9月某日。
日本全土がB29の空襲に見舞われていた戦争末期、東京帝国大学細菌学教室の助手・梅沢浜夫氏が、菌膜を発見。

国産ペニシリン碧素

黄色い粉末に精製したのが、国産第一号の碧素(ペニシリン)でした。碧素は640万倍に薄めても、ブドウ球菌の発育を阻止する極めて高い抗菌作用を持っていました。
しかしこの碧素(ペニシリン)は、物資不足などで生産に限界があり、戦地の負傷兵に使用されるなど、限られていました。

貧しい人々が、安価に抗生物質の恩恵を受けられるようになるには、まだまだ時間が必要だったのです―――。





テトラサイクリン系抗生物質アクロマイシン
戦後、国内で最初の抗生物質の保険適応収載は、テトラサイクリン系のテトラサイクリン塩酸塩で、1958年4月の事です。
肺炎や気管支炎、外傷・熱傷、梅毒や淋菌に対して効果を発揮し、この抗菌薬の登場で多くの命が救われました。
しかし当時テトラサイクリン系は、8歳未満の小児には、骨発育不全を起こすため、使用出来ませんでした。


翌年、1959年3月にはクロラムフェニコール系抗生物質が保険収載されましたが、この抗菌薬も小児にはグレイシンドローム(グレイ症候群=小児の未熟な肝臓がクロラムフェニコールを代謝出来ない事で起こる致死性循環不全)を起こすとして、使用出来ませんでした。


これらの抗生物質は、欧州や米国での、実投与による小児での副作用発現で明らかにされ、日本では小児への投与が禁忌となった。

1955年の日本の総人口は、8,927万6,000人余り、米国は1億6,800万人、西ヨーロッパは5億5,000万人余りで、臨床例が豊富だった事が挙げられます。


斯くして、小児の肺炎や猩紅熱(しょうこうねつ)や扁桃炎、急性気管支炎に使用出来る抗生物質は、1961年に保険収載される「ペニシリン」の登場を待つ事になります。


しかし不思議な事に、大人が使用出来る抗生物質のテトラサイクリン系は、1945年にベンジャミン・M・ダガー(米国)により放線菌の一種から発見されましたが、この抗生物質が日本で保険適応になるまで、僅か13年しか掛かっていません。

それなのに、「ドラマ-仁-」や「漫画-仁-」でも描かれたペニシリンの発見は1928年の事です。
この世界初の抗生物質ペニシリンが、私たち日本人が誰でも手に出来るようになるまで、実に33年もの月日を要しています。

何故、こんなにも差がついてしまったのでしょう‥‥?



ペニシリンG注射剤
グラム陽性菌用ペニシリンが保険適応となり、貧しい人や、地方の僻地に住む人でも、安価に抗生物質の恩恵を受けられるようになったのは、1961年9月の事です。
それは、ペニシリンが小児にも、安心して使用できる抗生物質だったからに他なりません。

もし当時、先に保険収載されたテトラサイクリン系抗生物質や、クロラムフェニコール系抗生物質が乳幼児や小児に使用されていたら、多くの薬害患者が出ていたかもしれません。



所で、ペニシリンの登場まで33年を費やした理由は、アオカビから安定して抽出する事が難しく、臨床応用に適さなかった事で、単に忘れ去られてしまっただけですが、1940年にオックスフォード大学のハワード・フローリー(米国)とエルンスト・チェイン(米国)が精製に成功、動物実験などを経て、1943年大量生産に漕ぎつけました。

ペニシリンはアレクサンダー・フレミング(英国)によって1928年に発見され、フローリーとチェインの2人によって実用化された事で、フレミング、フローリー、チェインの3名が1945年ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。―――奇しくも、太平洋戦争が終結した年です。

ペニシリンの発見は、それが前人未踏の功績だからと言う理由ではなく、のちに薬剤として、大人から小児まで使用可能な抗生物質になり得た事が、人類への大きな貢献となりました。





優れた薬剤は、一朝一夕(いっちょういっせき)に生まれる物ではありません。

1つの医薬品が誕生するまでには、途中で開発を断念したものや、臨床試験で予想された効果が出ないもの、又、副作用が重篤なため試験を中止したものなど、多くの徒労に終わった新薬候補が存在します。


私たちは、その日の目を見ないまま埋もれてしまった、新薬候補の事‥‥開発に携わった国内外の多くの研究者や、臨床試験に参加された患者を忘れないように、次回はその一端を振り返って見ましょう。







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